教団の中はまるで冬に似ている。









 しんしんと降り積もる雪の有無を言わせない静寂と同時に全身を針で突き刺すような痛い寒冷が、確かにここには存在しているとそう確信していた。 春でも夏でも秋でも、それは同じだった。温度は人が認知するものでその認知の歪みは果てしないのだと悟ったのもそれに気付いたその時だ。 人は何故こんなにも脆い生き物なのだろう。愛用のマグカップの湯気はそんな寒さに耐えられないと言わんばかりに立ち上る事を先刻諦めたようだった。
 そして今、そんな静寂を打ち消すように何処か騒がしい。時刻は世界が眠りに落ちていて、まだ醒めるには早すぎる。 ああ、嫌な予感ほど正しく中るものだ。そんな事実を知ってしまったら最後、それが大人になるという不必要な儀式なのかもしれないとおそらく誰もがそうよぎらずを得ないだろう。
「室長! こんな所にいらっしゃったんですか! 大変なんです、―――
 彼はボクを見付けると途端に顔を綻ばせて、けれど発せられた声色は驚きと恐怖を貼り付けたままに、今を何時だとも気の付いてないような音量で喚いた。 それだけで彼がどれだけ慌てているのかが目に見えて分かる。 「何、どうしたの?」と目元を緊張させて、それでも声色は刺激させない優しさを灯せば、彼はそれだけで少し落ち着いたようだった。できた部下を持つと上司はラクだ。
「廊下、……廊下に、何かを引き摺ったような血液が付着していて」
 それでも言の葉を口から滑らせればその光景がありありとその瞳に思い返されるようで、ずんずん悪くなる顔色がその気味の悪さをそのまま物語っていた。 彼を元気付けようだとかそういったものは一切なかったけれど、声のトーンが明るいまま「何処から?」と訊けば彼はボクの目を一頻り見遣って―――それはまるでボクへの返答を渋っているように―――それから少し視線を外した。
「水路から、です」
 そうして聞こえた声は消え入るようなものだった。
 それはそれに対する怯えなのだろう。
 冷え切ったマグカップを不意に覗き込むと、冷たくなったコーヒーがこちらを見返していた。

 相変わらず処理の仕切れない書類で塗れた部屋に戻ると、そこに居た彼ら科学班の面々は普段と変わりなく女王蟻に仕える働き蟻のように終らない書類の処理に追われていた。
「リーバー班長、教団内に侵入者が居るみたいだけど知ってる?」
 と、コーヒーのお代わりを頼むみたいに軽く訊いてみると、こちらの顔さえ見ないで「ああそうなんですか」と返ってきた。 ……おそらく彼の耳にこの言葉の意味は届いていないのだろう。ガリガリとペン先を走らせる音がそこから必死に聞こえている。 もし邪魔をすれば彼は盛大に怒るのだろう。けれどもし、先刻の報告が真実ならば、それどころではない。
「リーバー君。リーバー君? リーバーくーん。教団に侵入者だよ、侵・入・者」
 今度はもう少しきちんと言葉にしてみた。すると今度こそはそれなりに言葉が届いたのか、彼は「へぇ、シンニュウシャですか、良かったですね」と返した。 それでも彼に意味までは届かなかったようだ。それともペン先を走らせる事に必死なだけでやはり聞こえていないのかもしれない。
 そう傍観していたら、リーバー君はハッとしたように顔を上げて「しんにゅうしゃ……」とその言葉を知らない子どもみたいにぽつりと呟いた。 「しんにゅうしゃって、侵入者ですか、室長?」そして変な文法の言葉が返ってきた。
「うん、そうだよ。不法侵入者が居るみたい」
 飽くまで何でもないように静かに言ってみせると途端、リーバー班長は酷く呆れてみせた。
……それってどうなんですか」
「下手に慌てても結果は不味くなるばかりじゃない?」
 笑って言えば、彼はまた一つ溜息を吐いた。
……取り敢えず教団内エクソシストに連絡をします」
 彼がボクの発言で溜息を零す度、不合理な加虐心に駆られるのだけれど、これは誰にも言えない秘密だ。

 そうして水路に一人、人をやった。勿論、通信ゴーレムも一つ付ける。水路から引き摺ったその跡がそれの足跡の代りとなっている筈だからだ。 今何処に居るのかという見当を付けるにも必要不可欠の情報収集だった。 相手が何か分からない以上こちらも無闇な手を打つわけにもいかないが、万一アクマだった時の為にその偵察役を丁度任務から帰ってきていた神田君にして貰う事にした。 それから数刻、何ら変わりのない、いつもの教団内と同じであるような錯覚を起させるかのように静けさが戻っていた。そして神田君からは特に何の報告もない。
………本当に血の跡なんてあるんだろうな』
 聞こえたのは神田君の不信気味な発言だ。彼は彼にとって無駄な時間を過ごすという行為を一番嫌悪する。 もしこれが嘘でもあろうものなら、先ず直接命令を出したボクに「ふざけんな、コムイ」と六幻を片手に凄んでくるのだろう。それはそれで可愛いのだが、命に係わるのでできればご遠慮願いたい。
「直接ボクが見たわけじゃないから何とも言えないけどね」
……なかったらただじゃおかねぇぞ』
 ある意味予想通りな返答に気付かれないように少し笑った。そのままこつこつこつ、と硬質な床を歩く神田君の足音が響いた。 そしてその音が止まる。時計を見遣ると神田君がボクの居るこの場所から出て半時。 そしてそれは水路への到達には十分な時間だった。「もしかして血の跡なんてなかった?」と何となくおどけて訊いてみると少しして神田君は一言、ふざけんなよ、と何処か焦った様子でそう言った。 意味の分からなかったボクが「何故?」と問うよりも先に、神田君に付いていたゴーレムがその場を妙に鮮やかに映し出す。
 そうしてボクの見ていたスクリーンに残酷なまでに奇麗に映し出されたのは、水路から伸びた、引き摺るようなその跡の先にできた既に冷え切った血溜まりと、まるで寒さから身を守るように蹲った、―――
 ボクの後ろでリーバー君の息を飲む音が、また、聞こえた。
 これが後悔なら、ボクは何処へなら懺悔しに行く事を赦されるだろう。


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