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「痛みなんて、要らない」 涙も枯れ果てた後の言の葉に、 「―――ならば、その願いを叶えよう」 その時は酷く静謐に響いたその音は、私にとってまるで天使の祝詞だった。 そしてその時は、それが悪魔の囁きなのだと微塵も思えずに。
Painless
最初に見えたのは少し古びたチェスト。その上で昇ったばかりの陽光を浴びてキラキラと煌めいていた。 まるでそれらが神聖であると世界が称えているようだった。……吐き気がする、そんなのは妄想なのだ。 冷えた空気が刺すように自身を責め立てるから、それに少し眉を顰めてから身を起す。そして『いつも』の始まりだ。 チェストの直ぐ後ろにある格子窓から白い太陽の光が、雰囲気を変えてまた射し込んでいる。 それを一目見やるとその行為を咎めるかのようなタイミングで、この部屋に一つしかない扉がココン、と軽く叩かれた。 こんな時間、というよりこの扉を叩いたというそれだけで、その意味や用件は分かってしまう。 声を出す事さえ億劫に思っている事を相手は既に知っていた。 予想通りの声色と用件が無意味な単語の羅列として捉えるこの耳と脳のお陰で、殆ど毎朝のように聞いている筈のそれを私は今初めて聞いて知ったかのように感じている。 その役割に就いてもう随分と経つというのにジャメビュだなんてどうかしている。 それでもやはりこの体だけは日々繰り返す同じ行為に手間取る事はなく、用件が始まって少しすれば身支度はほぼ整っている。 最後から二つ目にその印であり、そして象徴でもあるような漆黒の闇を纏うように、桎梏のコートに今朝も袖を通す。いつものように。 そして最後にチェストの上で吸い込んだ光を吐き出すように放つそれらを手に取った。 私の命綱であると同時にすべてで一番嫌悪しているものだった。 だからきらりと神聖振って輝くこの時間帯は嫌いだった。 そうして緩やかに辿り着いた扉に付いている少し錆びたノブを捻ると、いつもの朝と同じように人が一人、気怠そうに扉の縁に器用にも倚り懸かっていた。 軋んだそれの開閉音でその視線がこちらへと移される。 リーバー・ウェンハム。 この小さな世界とも言える、多くの世界から拒絶されるように聳えた塔の中で沢山の苦労をしている内の一人だった。 彼は昨日と同じ服装と疲弊し切った表情を惜しげもなく全面に押し出して、起きた時にかけるべき挨拶を口にした。 それにはいつも視線で返事をしている。 朝はあまり喋りたい心境にはなれなかった。 「室長が呼んでる」とお決まりの台詞を最後に聞いてそして彼とは別れた。 無線で呼べば良いのに、と思うのはいつも、その台詞を聞いた直ぐ後だ。 「ヒメ、おはよう。よく眠れた?」 白いコートに身を包むその人は、傍から見れば立派な聖職者にでも見えるのかもしれない。 大きな十字を掲げ、重厚な雰囲気と艶やかなステンドグラスで彩られた、あの美しい教会でひたすら神を敬事している神父のような。 彼だけでなく、ここに居る人たちの内の数名は私を本名で呼ばずに『ひめ』と呼ぶ。 それはいわゆる『姫』で、彼らは私の母国語や漢字を知らない所為もあるのか何処か慣れない雰囲気を灯した呼び方だった。 そして返答など最初から待つ気もないのか、続いて「早速だけど任務だよ」と、言われなくても分かっている言葉が続いた。 そんな事を言われなくてもこの場所へ来るのはその時だけだった。 「今回は多分そんなに大変じゃないと思うから一人で行ってきて。……というか他は出払っちゃっててね。一人で行ってもらう外にないんだけど」 言いながら詳細を記した資料である黒いカバーの冊子を手渡される。 至近距離にいるその人が私の腰に回された使い古した革のベルトの後方を気に掛けて「調子は?」と訊いてきた。 それは私の、という意味ではなくそれに収まった背後のイノセンスの事だ。 そしてそれは『黒い月』と名付けられていた。回転式の拳銃で六発の弾を装填できる。 それは尋ねられた問いに答えるように、私の後ろで熱を持った。 「指名しておいてなんだけど、無理はしないでね」 見透かしたようにコムイさんは緩やかな言葉を紡いで、まるですべての母親のように笑んでいた。 見守る優しさを湛えるこの微笑みは酷く私を焦がして、そして目が熱を吸収していくのを知っているから嫌いだった。 でもいつも逸らせないのだ、今日も、……今も。嫌いなその笑みが、それでも酷く愛しかったから。 「……行ってきます、コムイさん」 「うん、気を付けてね」 するりと逃げるように離れる。重たい扉を押し開けて、その部屋との繋がりが切れたら溜息を吐いた。 そして水路へと足を向ける。腰のイノセンスが嘲笑うように熱くなっていた。 私はそれに気付かない振りをして手持ち無沙汰な片手を少し伸びた爪が突き刺さるまで握り締めた。 いっそそうして赤い雫が零れ落ちていけばいいのに、そうはならなかった。 単純にその長さが足りないだけ、だ。そしてそのくだらない事実に苛々した。 無駄な足掻きだと余計に言われているかのようで。 いつもと同じ顔をした静謐な水路へ辿り着くと、ちゃぷんとまるで私を待っていたとでも言うように浮かんだ小舟が水と戯れた。 そこには本当に誰も居なくて―――実を言うと、探索部隊の一人くらいは付くだろうと思っていて―――持ってきた黒いこのトランクはいささか小さかっただろうか、と独り事ちた。 それでも実際は武器とこの身とそして教団名義で作られそして配布されているクレジットカードがあれば、それだけで任務へは行く事ができた。それだけで事足りる。 同時に、酷く虚しいその事実を誰もが気付いていてそれでも知らない素振りで誤魔化している気がしていた。 手荷物を小舟に放り込むとその重さに文句を言うようにそれはぎしりと軋んで、続いて私が足を踏み入れると拒んで逃げるように沈んだ。 途端、苦笑する。 内蔵されている木製の古びたオールを手に取って最初の一歩を踏み出すように底を強く一突きすれば、軽い流れのあるこの水路の水流に沿ってそれは緩々と動き出した。 場所柄、酷く湿っぽい空気を孕んだ水路の壁にはある一定の間隔を取られて設置されたランプが寂しそうに、それでもここに居るその事を懸命に主張するように皓々としていた。 温かな色を灯すそれの筈が、やはり場所の所為なのかそれとも別の何かの所為なのか、まるで地獄へと向う様に酷似していると、行った事のない筈の光景が脳によぎる。 だって拒んで逃げたいのは―――。 じゃりじゃりとブーツの底が砕けた石やレンガ、その他諸々を踏み付けては悲鳴を上げさせている。そしてそれは寧ろ何よりも答えに近すぎる。 黒いトランクはさながら金で、地獄の沙汰もそれ次第、という事実に笑えてしまった。そのトランクよりも金と同等のものが私の腰には提げられているのに。 今更、あの時まるで地獄へ向う様に似ているとそう感じたのはあながち間違いでもないだろうと思えた。 「よう、のんびりしてていいのか」 少し笑った後のようなトーンの落ちないそれは、ないよりはましな一応の警告だった。 それは、私にしか聞こえない、声にならない声。頭の中に直接、放つ直前の音を捩じ込んだような、まるで悲鳴で慟哭で、その音にならない音が私は嫌いだった。 言いようのない寒気と恐怖で全身を塗り固めた、まるで刷込みのような錯覚を覚えるからだ。 カラン、と軽い音が聞こえた先を見遣ると、虚ろな色を灯した今では器になったそれがそこに居た。 ……居た、という表現はもう間違っているのだろう。 アクマだ、彼は笑った。 掠めるように左手が背後の拳銃へ伸びて、前へ突き出す反動と取り敢えず中ればいい、という適当な思いを込めると同時にトリガーに置いた指先へ少し、力を入れたら腹に溜め込んだ熱を吐き出すようにそれは飛び出していく。 ガウン、といやに重苦しい音だけを残した後、目標に向けて伸ばし切ったこの腕を縮めたがるように、波状の衝撃が手、手首、前腕、上腕、そして肩へ突き抜けた。 その拍子に体の重心が少し後方にずれていく。右足を後ろへずらしそして強く地を踏む事で動く重心は支え直せる。 闘う事でもう身に付いてしまったその突破方法だった。 「まだだ」 声と同時にトランクを手放して手持ち無沙汰にさせた右手がジャケット左側内部のそれをおもむろに掴む。 右肩を強く後ろへ捻れば自然とそれを引き抜く力が働いてそのまま右手が弧を描き、先刻までの自身の背後を銃口が睨み付けた。 それを確認するまでもなくトリガーを引いた。ぱん、と乾いたその音が耳に届いて直ぐ、それの脳漿を蹴散らした。 どさ、どさ、と音が聞こえて銃口からは湯気が上っていた。「おみごと」彼はまたくすり、と可愛げのない声で可愛らしい振りをして笑った。 「でも、まだだよ」 突き飛ばされるような衝撃を体が受けた。その反射でまるで私は肺結核の末期患者みたいに大量の赤いどろりとしたそれを吐き出した。 ごぽり、と一通り吐き出すとその間摂取できなかった酸素を体が求めて金魚のようにぱくぱくと口が動く。 何事だ、とふと下を見れば胸から赤黒い何かが伸びていた。赤黒いそれは自身の血で、伸びているのはおそらく腕か何かだろう。 それを確認すると、その行為を待っていたと言わんばかりにずるりと嫌な音を立てて最初の衝撃とは逆のそれで体の中心が後ろへ引っ張られた。 けれど私は身に付いていた突破方法を使って倒れる事はできなかった。 ぼたぼたぼた、とまさに大量出血サービスだとでも言いたげなその量に軽く眩暈がする。 「ひひひ、ひ。エクソしスとエクそシスとエくそしストえくソシすとエクソシスト……!」 口の端をにたりと上げてそれは覚えたての覚えさせられた単語の意味をきちんと知らないままにそう連呼した。 それでもそういった区別だけは一人前に付くらしい。案外、賢いのかもしれない。 その手に付いた赤黒いそれをちろりと覗いた舌で舐め上げると酷く嬉しそうに悦んだ。 あまりに美味しそうに舐めるから、その不味そうに赤黒いそれはキャンディーのように甘いのか、とつい問いたくなった。 くだらない。 ぐらり、と不愉快なほどに揺れ動く視界がきっと、今の私にとっては最大の警告音なのだろう。 それでも何でもないように左手で冷えた熱を放つ『ネロ』の銃口を睨み付けるように突き付けると、その行為の意味を知らない子どもみたいにそれはにたりとまた笑う。 ああ、そうだ、それらは子どもに酷似している。無邪気に遊んでとそう意思表示をしているだけ、まだ可愛らしいのだろうか。 そんなわけがない。 胸が、酷く熱い。衝動で、人差指に力が入るとまたガウンと重い音が零れ落ちた。 三度目の銃声が響くと同時にその子どもはそこへ血溜りを作って幸せそうに倒れた。その赤黒く変色したそれを舐めようなどとは到底思えなかった。 腐臭と瓦礫だけが連なり続けるこの廃墟は、いつまでもこのままだろう。復興できるだなんて微塵も思えなかった。 ただ熱い、まるで灼熱の地獄のようにおびただしい赤いそれがこびり付いてそのまま、世界が壊れても、放れないのだから。 そうして取り敢えず応急措置だけを施した。染み込んで滲んだ鈍い深紅はもう取れなくなっていた。 全身が闇を模したように黒尽くめで色などこれ以上は付かない筈なのに、それでもじっとりと滲んで取れないそれは赤黒くからりと乾いていた。 噎せ返るほどの鉄のにおいが既にこの身には染み付いている。それでも、これに慣れる事などできないだろう。 ……違う、慣れる事など永遠に来ないように無意味な祈りと懺悔を捧げているのだ、今も絶え間なく、信じてさえいないそれを胸に抱いて。 馬鹿みたいだ。 世界は見渡せないほどに広いのに、私の帰りたい場所は何処にもなかった。それは、いつの間にか失くしてしまったのかもしれなかった。 さらさらに柔らかく細かな砂の粒がまるで指の間からするりと笑って逃げるように。必死に手繰り寄せようとしても、それはいつもいつか溶けて消えてゆく。 悲しいと、そう思えたのは、もう幾分も前の話だ。 けれど、まだ帰れる場所が残っているという事実に私は感謝すべきなのだろう。 それにどれだけの嫌悪と憎悪と殺意を抱いても、それが私のすべてで生きる糧でもあるならば。 |